藤田博之
平成七年八月十三日
於 東京日本橋西ロータリークラブ
私にとっては荷の重い標題を頂き恐縮しております。
時間がありませんので早速スピーチに入らせて頂きます。愚者は経験を賢者は歴史を学ぶと申しますが戦後五十年節目の年を迎え終戦の日のことや戦争と言うものを改めて見つめ直す機会とされた方々が多くおられた事と存じます。私もその一人でありますので私の人生にとって忘れる事のできない悲しい思い出の島、硫黄島における十ヶ月間に亘る戦争体験と史実を基にお話を申し上げ賢者であります皆様方の歴史観、戦争観に些かなりとも供する事ができれば幸いに存じます。堺屋太一氏が小説の中で人間は好運を得るためには努力と実力とそして忍耐が不可欠だと申しています。私もそのように思います。しかし長い人生においては辛い事だが運命を甘受する事以外には避ける事が出来得ない立場や場合があります。特に戦場においては人間の運命は正に神或いは宇宙の摂理の中にある様に思われるのであります。
昭和十七年十二月陸軍重砲兵学校を卒業した私は珊瑚礁と紺碧の空に彩られた小笠原諸島の父島要塞重砲連隊に配属になりました。戦争の気配すら感じさせない穏やかな日々の中で何れ直面するであろう上陸戦闘に備え厳しい訓練と陣地構築に明け暮れておりました。昭和十九年に入りますと戦局は極度に悪化しマリアナ諸島が次々に攻略され米軍のサイパン島攻撃の切迫さを示す師団情報が続々と伝達されてきました。昭和十九年五月上旬私の所属する部隊に対し急遽一ヶ大隊を編成し硫黄島に転進し米軍の上陸作戦に備え速やかに戦闘準備を完了すべしとの師団命令が発令され、私は中隊の先任将校として硫黄島に向かって勇躍父島を出港したのであります。硫黄島は本土の真南二千キロ、本土とサイパン島との略々中間に位置し北部に僅かの樹木を見る外は一面砂地と硫黄におおわれ水は雨水に頼る外ない世田谷区の半分にも満たない二十二平方キロの太平洋に浮かぶ孤島であります。しかしお手許の地図にあります飛行場は日本全土を空襲する際サイパンを飛び立ったB24、B29の中継基地としても又これからの爆撃機を援護する戦闘機の基地としても米軍にとっては絶対的に必要な飛行場でありました。逆に申せば日本本土を米軍機の爆撃から守る上において死守せなばならない最重要な島であったのであります。
私の上陸した時には増援されたばかりの陸海軍合わせて六千名足らずが駐屯しておりましたが陣地らしきものは殆ど見当たらず当時の緊迫した情報下に在りながら今日同様危機管理意識に欠けた無防備に等しい状態にあったのであります。
七月七日のサイパン守備隊の玉砕と共に硫黄島攻略を意図する偵察並びに攻撃は一段と激化して来ました。
七月中旬突如の空襲警報発令と同時にかってない敵機の大編隊による空襲と共に水平線の彼方に数十隻からなる米艦隊を私の双眼鏡は捕らえました。間もなく飛行場を目標に艦砲射撃が一斉に開始され砲煙により小さな島全体はまたたく間に覆い隠されてしまいました。
学生時代葉山の一色海岸でよく見た相模湾沖に展開する連合艦隊の観覧式又はパラマント映画を見ているような気分と初めて経験する戦争の恐怖心とが入り混じりながら私は急ぎ防空壕へと退避しました。艦砲射撃二日目の夜明朝敵上陸の公算大なりとの師団情報が伝達されました。硫黄島上陸後二ヶ月足らずと言う事で戦闘準備が全く整っておりませんでした。その上急遽編成した兵団の為各部隊の戦闘配置の状況すら不明と言う最悪の状態に置かれ不安と緊張に包まれた長い長い夜を迎えました。夜の帳りが白々と明けてくる四時三十分既に太平洋上には敵艦の姿は消え硫黄島は一時静けさを取り戻しておりました。今迄の戦闘状況から多分皆様はお判りかと存じますが、この時期に至っても尚、敵の戦力や動向すら全く知り得ない無情報の中に我々は置かれていたのであります。当時既に食糧の補充が途絶えがちでやっと全将兵の一日分の食糧を積んだ気帆船が南海岸に着岸するや敵機の餌食となるため将兵にとって眠る事の外唯一の楽し味である食事も米粒が勘定できる二分粥程度の主食の外、僅かの乾燥野菜と一日水筒一本分の水の配給という惨めな状況でありました。こうした悪条件の下で四十度を超す地熱の中地下十米程度の防空壕並びに地下陣地構築の作業が昼夜兼行で行われていました。米艦隊がホノルルを出港北上中との無線が入る米軍の次の攻撃は沖縄か硫黄島か台湾かと緊張した空気が隊内を駆け巡ります。一日も早く戦闘準備を完了しなければと気はあせりますが兵隊は過労と栄養失調とデング熱に犯され次々に倒れ戦力は三分の一程度に減退しておりました。遂に頑健を誇っておりました私も中隊長に続いて病に倒れるに至りました。中隊長は慶応大学の大先輩でありました関係からかいつ上陸戦闘が始まっても不思議でない緊迫した状況下にありながら毎日の様に私に命を粗末にするな本土に帰る事を考えろと口癖の様に申しておりました。当時師団命令で補充のない状況下では将校の病気による内地還送は全くあり得なかったのであります。ある日大隊付きの軍医から肋膜炎の恐れがあるので直ちに野戦病院に入院する様指示されたのであります。病院で肋膜炎と診断され病室に入る私を直前に呼び止めた軍医が内地還送の手続きをするが誰にも喋るなと口止めされたのであります。そして良く部下の面倒を見ましたねとの一言を後に立ち去って行きました。
その軍医とは一面識もなく再び会う機会もありませんでしたので軍医の言われた一言の意味は未だに判らないのであります。誠に複雑な気持ちで過ごした数日後の十二月八日の事であります。間もなく内地から飛来する飛行機にて内地還送を命ずとの命令を受け戦闘準備未了を気遣う気持ちと生きて帰れることの嬉しさとが入り混じり複雑な心境で軍装を整え飛行場へ向かおうと病室を一歩踏み出した瞬間、警報もなく二百機以上の大編隊による空爆地上掃射が開始されました。
全く予想だもしない事態に恐怖心と将校としての責任感とが入り交じり、私はいつの間にか海岸線の見える場所へと走り続けていました。双眼鏡を通して見える水平線上に戦艦を始めとする大機動部隊の集結を見たのであります。
艦隊後方の空母からであろうグラマン戦闘機の大編隊が、空一面を覆い隠し波状攻撃が間断なく続きました。間もなく上空を飛び廻る観測機との連絡を基に、戦艦を始とした主力艦の四十糎(センチ)乃至、二十糎砲塔からから数千発にもおよぶ、戦慄を覚える砲撃が開始されたのであります。
当時、吾が軍が誇るゼロ戦百八十機が滑走路狭しと偉容を誇っていましたが、突如の空襲に迎撃が遅れ上昇中に敵機に捕捉され、吾々の目の前上空で多くは撃墜、或いは地上撃破され3日間の戦闘で全滅し、その後は唯々敵の蹂躙にまかせざるを得ない惨憺たる有様でした。
ふと、吾に帰り自分が内地還送の身であり、かつ、直接指揮命令する部下を持たない気楽さを感じた瞬間から、唯生きていたい、生きて本土に帰りたいとの気弱い一念に取り付かれ防空壕の奥へ奥へと避難する変わり果てた自分の姿と心に気付き、唖然としたのであります。そしてその時、人間と云うものは本来弱い者だが、軍人という使命感、或いは指揮官と云う立場上の責任感が、心の支えとなって強い人間に成り得ていたのだと気が付いたのであります。
内地に帰る飛行機も無残にも爆破され、再び内地還送命令が出たのは、それから十日後の夜の事でした。
空襲を受けて南海岸を離れようとするLSTに飛び乗り五十名弱の傷病兵と共に、翌日無事父島の野戦病院に入院したのであります。重砲兵学校では将校としての人格資質を磨く上において戦闘綱要として、次の様な徹底した教育を受けていたのであります。
指揮官は軍隊指揮の中枢にして、その団結の核心なり。率先躬行、軍隊の儀表として其の尊信を受け、剣電弾雨の間に立ち、勇猛沈着部下をして仰ぎて軍獄の重きを感ぜしめざるべからず。とありますので、気弱くなった時点においては私は指揮官たる将校の資格を失っていた訳です。
入院間もなく昭和二十年の正月を迎えました。私の硫黄島からの船を最後に、内地と硫黄島との航行は完全に途絶えてしまいました。昭和二十年二月十日サイパン沖に集結したミニッツ大将の率いる第五艦隊が硫黄島に向かいつつありとの緊急情報に、私は再び責任感の強い青年将校に立ち戻り、直ちに自己退院を申告し、父島の原隊本部に着任しました。
父島師団司令部と硫黄島守備隊との交信は、日増しに頻度を増し、緊張に包まれた父島要塞三万の将兵が戦闘配置についたのは勿論の事であります。
父島における其の後の状況についてお話し致し度い事が多くありますが時間がありませんので省略致し、硫黄島に話を戻します。二月十七日の早朝、硫黄島南海岸の沖合に展開した米艦隊四百九十五隻の砲門が、午前八時を期し一斉に火蓋を切り世界戦史に残る硫黄島の攻防が開始されたのであります。
運命の二月十九日早朝、米軍の海兵隊七五、〇〇〇は数百隻の大型の上陸用舟艇にて、南海岸より上陸を開始しました。これを迎え撃つ硫黄島守備隊は、名将と謳われた栗林中将ほか兵団二二、〇〇〇でありました。
南海岸上陸地点から飛行場に向かい三〇〇米一帯は一面地雷原であります。そして、其の前方には速射砲のトーチカと、ベルリンオリンピックで世界に名を轟かした、バロン西こと西大佐の率いる戦車の大部分を砂地に埋め、トーチカ代わりにした鉄壁な布陣を敷き、万一これを突破され、飛行場に敵軍が近付いた際には全島の火砲が一斉にその地域に対し、集中砲火を浴びせる作戦となっておりました。
旺盛な志気と、全島を一八Kに及ぶ地下洞窟で結び全島これ要塞を思わせる堅固な防御陣地によってこそ、支援火力において五〇倍、兵力において三.五倍に相当する米軍と、三十六日間の長きに亘る死闘がこの日を堺にして展開されたのであります。
この間に、この小さな島に米軍によって撃ち出された砲弾は、八畳間に一発の割合に当たる四十五万発、上陸時より投入された米軍機は延べ数千機にも達し、投下された爆弾は数十万発と戦史に記されております。
私の部下二三〇名の中二名が負傷し、後に無事帰還しましたが、実戦の模様を聴きますと昼夜に亘る砲爆撃は言語に絶する凄まじいもので、一〇米移動するのに一昼夜を要し戦場は正に地獄絵巻そのものだったと涙ながらに述懐し、当時の事は想い出したくないと申しておりました。
吾が中隊の主力陣地は、地図の中央上部の元山地区の、二ヶ所に砲六門による砲台と、今一ヶ所は、必ず南海岸に敵は上陸するであろうと予想し、地図の中央右下にあります採石場の断崖の中腹に上陸する米軍を、横真上から狙い撃ちするために、僅か横二.五米、縦一.五米を砲眼とする火砲一門を配備したのであります。
昭和二十四年封切られた、ジョン・ウェィン主演の映画「硫黄島の砂」の上陸戦闘の場面に、その砲台から果敢に撃ちまくる実写の映画を見た瞬間、私の胸は高鳴り咽び泣きした、あの場面を忘れることができません。
その砲台も、戦闘第一日目にして、二.五米、一.五米の僅かな砲眼に直撃弾をうけ、全員戦死したとの事です。戦史によりますと、採石場一帯に対し上陸前二日間と上陸日に、夫々、七,五〇〇発の砲撃が行われた程、双方にとって重要な地域であったのであります。
三十六日間の戦闘の末、三月二十一日大本営は「三月十七日の夜半を期し、最高指揮官を陣頭に皇国の必勝と安泰を祈念し、もって全員壮烈な総攻撃を敢行し全員玉砕せり」と発表しました。然し三月二十一日父島師団司令部宛に「我が将兵は、依然敢闘中なり、敵戦線は我を去る二〇〇米乃至三〇〇米に在りて、戦車を以って攻撃しつつあり、敵は拡声器をもって我に降伏を勧告せり。然れども吾が将兵は、敵の小策を一笑に付し相手とせず、父島の皆さんサヨウナラ・サヨウナラ」の言葉を最後に電信は途絶えたのであります。
その後も尚戦闘は続き、全員玉砕と改め発表された日は、昭和二十年三月二十六日でありました。
米軍の死傷者は、戦死八,七〇〇、負傷者一万七千、の多数を数え、如何に激しい戦いであった伺い知ることが出来ると思います。
先程も申し上げましたように、四十度以上の地熱と硫黄ガスに耐え、栄養失調と水不足に苦しみ乍ら、皇居の十五倍に過ぎない太平洋の孤島で、兵力、火力、共に圧倒的な米軍を相手によくぞ三十六日間も戦ったと、よく事情を知る私ですら信じられない想いが致します。
戦況は激しくなるにつれ、常々死ぬ前に、思う存分水を飲みたいと云い続けていた兵隊のことを思うと、唯々悲しい想い出が心をよぎります。
硫黄島の戦いに関する著書は多数ありますが、それは両国民にとって悲惨な回想であると同時に、両国民が念願する永遠の平和へのメッセージであると思います。
硫黄島に関し深い関心と、その戦史に情念をもっておられる上坂冬子さんの著書に次の様に書かれております。
星霜四十年に当たる昭和六十年、米軍が硫黄島に上陸を開始した二月十九日に、アメリカ側から二七七名、日本側から一〇〇名の生還者及び遺族による、怨讐を超えた名誉の再会が硫黄島の記念碑が建っている太平洋を見下ろす場所で行われました。石碑の南向きの片側には、英語でリュニオン オブオナー、反対側の北面には、日本語で再会の祈りとタイトルを刻み、英文と日本文で、硫黄島戦闘四十周年に当たり曽ての日米軍人は本日 茲に平和と友好の裡に同じ砂浜の上で再会す 我々同志は死生を超えて勇気と名誉とを以て戦ったことを銘記すると共に硫黄島での吾々の犠牲を常に心に留め且つ決して之れを繰り返すことのないように祈る次第であると記されているのであります。記念碑の前で僧侶の読経が静かに流れ次いで牧師による敬虔な平和の祈りが終わると二人は抱き合って今日の平和を感謝すると 期せずして日米双方の遺族及び退役軍人が入り乱れて抱き合い涙を流して平和を誓いあったのであります。
国際ロータリークラブはこの記念すべき年の暮れに全世界の青少年を対象に「平和への手紙」コンテストを行ったのであります。応答作品四万五千点の中からグランプリ作品として最高の栄誉に浴したのは四十周年の再会に際し曽ての海兵隊員であった祖父に連れてこられたマイケル・ジャコビーと言う最年少者でありました。そしてその平和への手紙の宛先はレーガン大統領でありました。彼は次のように語ったのであります「今私たちがいる場所で四十年前お互いに殺し合おうとしていたのです。それから僅か四十年でどうしてこれ程の変化をしたのでしょうか、どんな憎み合った敵同士でも友人となり仲間となる事が出来ると言う事実を全世界の人々に是非知ってもらいたい、私は祖国を愛し祖国を守るためには必要であれば戦うつもりです。然し 私自身の孫がいつか敵の孫と友情をもって抱き合える日があるかも知れないと思うと敵を殺してもいいものかと心が乱れる」と語っているのです。
終戦五十周年目に当る今年の六月四日、世界の戦史に残る硫黄島の鎮魂の丘で、戦争を知らない貴乃花関と曙関の日米の両横綱が擂鉢山に向かって、亡き日米両国の英霊よ安らかなれ とシコを踏み平和を誓う記念すべき土俵入りが行われた事はご承知の通りであります。そして、昭和九年に発足した日米学生会議が八月十八日、双方の学生会議メンバー三十二人によって硫黄島で四十七回目のフォーラムを開催致しましたが、双方共に戦争のとらえ方にしても日米では認識に相当の差異がある事を知りました。然し、結論として得た成果は、マイケル・ジャコビー少年の手紙と同様「柔軟な精神と相互理解をした」との硫黄島宣言となったのであります。
そして、当時OBの一人として参加しておられた宮沢元首相は、戦時下においては、平和を希求したこの会議も全く実らず、せい惨な戦いの象徴が硫黄島であった。しかし、戦后五十年同じ場所で新たな日米の関係が和解の象徴として示されたと語っておられます。
戦争とは、酷いもの恐ろしいものであり憎しべきものであります、そして悲しい想いがいつ迄も心をよぎります、こうした戦争の事実を語り継ぎ 不幸にして否応なく戦争に直面せざるを得なかったその時代の人々が愛する祖国日本のために如何にしてその努めを果たしたか、そして平和を勝ちとるという事柄が、どんなに大切なものであり尊いものであるかを正確な史実を通じて伝えると言うことは、百万言の平和を唱える国会決議に勝る無言の行事であり平和を願う国民の祈りであると思うのであります。
戦後五十年の節目を迎え戦斗に参加し戦争の愚かさを悟り平和の尊さを身をもって体験した吾々こそ子々孫々に至るまで永遠の平和の道を説き伝え継ぐことを心から願うものであります。
私の生涯を通じて忘れ難い硫黄島に思いを寄せ、日米両国三万の戦没者、就中 私と運命を異にして戦没された中隊長以下二百三十名の英霊に対し、限りない感謝を捧げ心安かれと祈り乍ら終戦五十年の記念講演を終わらせて頂きます。